2008年7月8日火曜日

【今は昔】 柴五郎 【ウィキサヨも上手くなってきた】

ウィキを見たら、まるで○○ケイ新聞の記事やブログみたいに、ほーんの一部だけ変えて(?)全体をひっくり返す手法を使っていた。
素晴らしくうまく書いている。「おかしいな?」という匂いがしなければ気がつかなかった。
朝日や毎日はわかりやすい。↑のようなウヨ(世界的に見れば中道左派)の仮面をかぶったサヨでも上手い奴がうようよいるようだ。
気をつけたほうが良いね♪

Japan On the Globe(222) 国際派日本人養成講座 人物探訪:コロネル・シバ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog222.html
(以下コピペ)

■1.唐突な日英同盟締結の背景■
 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日 本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

■2.義和団の地鳴り■
 1885(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。
 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京-天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

■3.籠城計画■
 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。
 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。
 柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

■4.義和団の来襲■
 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。
 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。
 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。

■6.清国軍も攻撃開始■
 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。
 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。
 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーとベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。
 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてき た。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、 「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。

■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ■
 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。[1,pp481]

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大 いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・
 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

■8.安藤大尉の奮戦■
 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦 が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。

 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、3 0余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。[1,p500]

■9.コロネル・シバ■
 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

(以上抜粋 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog222.html ここより)


その後、台湾軍司令官などいくつもの経歴を経て、日本最後の戦争の前、昭和5年に退役。
敗戦時に身の回りを片付けはじめ、自殺を試みるもかなわず、その傷がもとで12月に死去された。

退役をあと10年、10年だけ遅らせ、若い者達や軍の主だった者達に明治の気概を教えていてもらえたら、また違っていたかもしれない。
歴史のIFは面白いし今後の為になるが、これこそ今後に活かし、伝えなければ成らないものを持つ老人達には出来うる限り伝えていってもらいたい。




近代日本人の肖像 柴五郎
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/275.html

日本兵士のすばらしさを欧米中に最初に知らしめた男 柴
http://www.nipponnosekaiichi.com/great_man/shiba-goro/597.html

ウィキペディア 柴五郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BA%94%E9%83%8E

ウィキペディア 義和団の乱 ←問題あり???
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1


ウィキペディア側には少々不審な点がありましたので記載しておきます。
(義和団の乱)
>籠城戦に当たって実質総指揮を担ったのは柴五郎であり(各国中で最先任の士官だったから)、解放後日本人からだけでなく欧米人からも多くの賛辞が寄せられている

カッコ内がなぜ必要か?
最先任というだけで「実質総指揮者」に当時の白人達が容認するか?
柴は着任したばかりだったのが事実だが、それでも最先任なのか?
そのような立場だけで総指揮官になったのであれば、その後に各国から勲章が贈られ、柴のおかげで日英同盟まで発展したのはなでなのか?

ここの上二つと四つ目から何か意図があるように見える。
三つ目はどこの資料にもそのことは見当たらないが、どこかで勘違いしたのかもしれない。が、もしそうだとしたとしても、そのほか三つの疑問は消えない。

>「耶蘇教民がいてわれわれを助けなかったならば、われわれ小数の兵にては、とうてい粛親王府は保てなかったかと思われます」、「無事にあの任務を果たせたのも信用し合っていた多くの中国人のお陰でした。そのことを明らかにすると、彼らは漢奸として、不幸な目にあうので、当時は報告しませんでした」
>この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。

第一に、義和団側というか清国軍ですら、近代兵器を持っていたが使えなかったぐらいの原住民程度であった。よって、銃器使用による協力不能。ましてや弾薬不足であり、素人に使わせる分は無い。
第二、義和団と清国軍側は屈強な兵士などであり、ウィキ文中にもあるように日本軍に賞賛されるほど勇敢で強かった。それに素人が対抗できるわけ無いし、それをさせた記録も無い。
第三に、>彼らは漢奸として不幸な目にあうので、当時は報告しませんでした」
とあるが、もう当時虐殺されており、それで逃れてきていたキリシタンである。聡明な柴がそれを忘れていたわけではあるまい。もし、本当に柴がこのような発言をされていたのであるならば、所謂リップサービスの域を出ない。

>公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた
事実はこのようなものだったのだ。

義勇兵として立ち上がった勇敢な30名の支那人クリスチャンがどのような仕事をしたかについては言及が無い。特記するべきことがあれば、このウィキを書いた者は書いていたはずだろう。
ただ言えるのは、18名の支那人クリスチャンが亡くなった、というほどくびの皮一枚の激戦だったということだ。
戦える人間を一人でも消耗させたくない状況であったのは、誰でもが想像できることだ。
そのような状態で、しかも(多分だが)銃を握って敵の目前に立っているのではないだろう支那人たちが18名も殺害されたことは、どれほど肉薄されていたことだろうか。
その状況を考えても、2ヶ月を持たせた、ということだけでも奇跡に近いのに、4000名を高々500人で、各大使館と王府という複数個所を守りきり、犠牲者も少数で済んだのは、とても信じ難いことだ。


>しかし籠城を成功させた最も大きな理由は、清朝の不徹底な交戦姿勢にあった。西太后の命により「宣戦布告」したものの、少なくとも栄禄ら戦争消極派はそう考えていた。のである。、柴は董福祥の甘軍は真剣に包囲殲滅を目指しているが、栄禄直轄の部隊は銃撃するものの突撃などは少なかったと解放後に述べている

これも先ほどの疑問と同様。
なぜ>柴五郎らもその辺の温度差を敏感に感じ取っており  ということが出来たのか?スパイでも放てた状況とはとても思えないが。そうであったならば言及が無いのも不思議だ。

もっとわからないのが、
>当初から列強に勝利する確信は清朝側に無かった。
これと、
>したがって敗戦後の連合軍の報復を考慮したとき、公使館に立てこもる人々を虐殺することに躊躇を覚えていた
つながりが希薄。
現在の日本人や欧米人を基準に考えれば当然といえば当然の考えかもしれない。
が、当時の状況や当時の人間の行動などを見てみると、現在の人間の考えとはかなり違う。しかも支那人である。「逃げる」のはあたりまえの支那人である。現に西太后は逃げた。一般人の振りをして。日中戦争時代になっても国民党や共産軍は同様なことをしてきた。しかも(柴が去った後と思える)連合軍は略奪し放題のような記載もある。
なぜ、包囲清国軍司令官達だけが、そのような現代的白人や日本人的な考えを持てたのか不思議でならない。
話し合いに出た公使を問答無用に射殺しておいて?
全くにこの文を書いた者の意図がわからない。



なので、柴五郎の命令で略奪品の多さが連合軍で最高だった、という記述も裏付けもないし、どう信用すればいいのかw


一つ一つは、「まぁ、それもありかも、、」であるが、その総体としてみると“白人や日本が悪い!!”となってしまっているように取れるように書いてあるのが、、、、、
言葉をもうちょっと厳しく変えて読んでみると意図が良くわかるw
だが、これで大多数がそう信じ込んでしまうのが非常に危険だと考える。
ここでそうやっているのだ。ほかでもどれだけやられていることか、、考えただけでも気が遠くなる。
しかも、通常の判りやすい「平和詐欺者」達にも騙される輩が多いし、、、OTL、、、
ねずみ講のほうがよっぽど国に与える害がないわw


ウィキは素人が書く辞典だ。情報も早く大変便利だが、素人がその個人の主観をも含めて書くことなのだ、と理解したうえで見ないと騙されることもある。他の資料との併用は必須だ。(まぁ、他の資料にも同様なことがいえる場合も多いが)


にちゃんを便所の落書きとするならば、ウィキや他のブログも同列になると思う。本名出したから絶対信用できるか?無理だしw







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                                        うにまろ  拝








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