2008年8月2日土曜日

新内閣閣僚の中身(総理、総務、法務)

政治には(にもw)疎いのでコピペ!!
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/34895726.html
(まいどのcoffeeさんのブログより拝借。小文字は私が検索かけたものから抜粋等、カッコ内はだいたい私のコメント。違うのもあります)

まさに、反日・国賊・売国奴内閣だ!

総務 増田寛也(留任)
法務 保岡興治
外務 高村正彦(留任)
財務 伊吹文明
文部科学 鈴木恒夫(初入閣)
厚生労働 舛添要一(留任)
農水 太田誠一経済
産業 二階俊博
国土交通 谷垣禎一
環境 斉藤鉄夫(初入閣)
防衛 林芳正(初入閣)
官房 町村信孝(留任)
国家公安委員長・沖縄北方・防災 林幹雄(初入閣)
消費者 野田聖子
金融・行政改革 茂木敏充
経済財政 与謝野馨
少子化・拉致問題 中山恭子(初入閣)


<内閣改造>「知中派」多数起用を歓迎…中国 8月1日23時9分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080801-00000162-mai-cn

>日中関係の火種となってきた東シナ海のガス田開発を二階氏、中国国内で不信感が根強い日本の防衛政策を林氏が担当することになるからだ。林氏は先月、日中友好議員連盟若手訪中団の団長として訪中したばかり
(ここまで)

防衛相が敵国の支那から歓迎される内閣なんて最悪だ!



総理 福田康夫
サラリーマン総理!! 群馬県高崎市出身。大学卒業後、石油会社で17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする。
1949年3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。駐箚中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった
1955年3月、麻布高等学校卒業。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった。同級生には声優の柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる

石油関係の外資族との関係が出来た? 1959年3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格・量の動向の予測・判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた。このときオイルショックを経験している

1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博、棚橋祐治、小和田恆らがいた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した
議員としては、外務政務次官、衆議院外務委員長、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった

得意技は「無難な調整役」 2000年10月に第2次森内閣で、女性スキャンダルが問題視され辞任した中川秀直に代わって内閣官房長官に就任する。後任人事として小泉純一郎や尾身幸次があげられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」、と考え推薦した。閣僚経験が皆無であったにも関わらず、森内閣で官房長官に起用されたことに疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役をつとめた(つまり、うまく騙すといくか丸め込むのがうまいのか?総理としての器ではなく、確かに調整役としての器が勝っているな。)

実務能力には定評があり、官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。
小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。そのため、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。(隙があったら潜り込む巧さも持っているわけですな)
田中の後任には川口順子が就任したが、川口は民間人閣僚のため与党内に基盤を持たず、福田の外交への関与はその後も続き、官房長官を退任するまで官邸外交を取り仕切ることになった。
(ちがうべ?福田が上手く行動できるように、無難な人を外務にすえたんだろ?)

在職中は、台湾前総統の李登輝が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣河野洋平と共にビザ発給に反対したといわれる。
また、北朝鮮による日本人拉致問題に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている
特に、『文藝春秋』とその系列メディアが官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から政府広報の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。

やはり調整役 しかし、7月の群馬県知事選挙では、自民党候補の大沢正明の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した
核所有希望? 内閣官房長官在任中、日本は理屈上核兵器保持は可能だが政策判断としてやめていると従来からの政府答弁をした。その直後に政府首脳が「(将来)国民が核を持つべきだということになるかもしれない」と「非核三原則見直し」と発言したと報じられたが、野党はこれを福田の発言であるとした


やるときゃ筋を無視してもやる? 2008年3月27日、福田は総理大臣官邸で緊急記者会見を行い、道路特定財源制度を全て廃止し2009年度から一般財源化すると正式発表した。
・・臨時記者会見の発表内容については、財務省、国土交通省、与党役員、道路族議員には相談せず、福田と一部の官邸スタッフだけで策定
・・党の反発を押し切った福田の姿勢を「総理による宮廷クーデター」
・・福田提案により自民党内の一般財源化主張派が「抵抗勢力から近衛部隊に一変した」

言うことはいいんだが、、目標は外資族の餌? 日本経済について「成長だとかGDP(国内総生産)という量的なものではなく、質的な転換がいる」との持論を持っており、経済財政諮問会議に「構造変化と日本経済専門調査会」を新規に設置した。


世界潮流に逆行の売国、空港に外資導入 同年2月27日には冬柴が町村に再度外資規制の必要性を強く訴えたが、福田は冬柴の意見を却下し規制条項を削除した法案を閣議決定した


社会保障?どういった意味での? 「社会保障国民会議」を内閣官房に設置し、社会保障に関する制度を見直しを進めている。メンバーは福田自らが人選し、小泉政権で経済財政諮問会議議員を務めた奥田碩、吉川洋らを指名した


村山談話容認 2007年9月19日、日本外国特派員協会において、「村山首相の時代に首相が言ったことだから、正しいものだと考える必要がある」と述べ、「村山談話」を踏襲する意向を示した(頭が固いのか、自分の意の沿うからなのか?)


ここでもやったね。 (切れるときの基準が「サラリーマン」みたい。おき場所によってはずいぶん使える人材に見える。が、今の場所ではないことだけは確かだ。)道路特定財源からの不適正な支出や、国土交通省出身者の公益法人などへの天下りが政治問題化すると・・・2008年7月4日、閣僚懇談会にて国務大臣らに「公益法人への支出の三割を削減する」と指示した。「3割削減」とする数値目標について党や省庁との事前調整は一切していなかったが、同日の記者会見にて「それにとどまることはない」


韜晦? 福田は「移民が急速に入り社会的混乱を起こすのは避けなければならない」と述べ、受け入れにより懸念される問題点を指摘している。そのうえで、少子高齢化による労働力不足の解消のため移民を受け入れるべき、との意見に対しては「受け入れる必要度はまだ小さい段階」と反論(これが本音ならば、福田氏は師匠を間違えたようだ。今からでも遅くは無いから、もっと遠くを見据えた見方などもせれるようにしてやるべき。人材として適所に配置すればとても使えるだろう。)

以上、ウィキから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB)


やはり、サラリーマン資質ですね。
だれだ?持ち上げた奴は!
そりゃ、操り師かw




総務 増田寛也(留任)

(非常に有能な人材のようにも見える。いろいろな派閥から引かれるのも、有能であるし、素直なのかもしれない。きっちりした理由があれば方向転換もできる柔軟性もみえる。何よりちょい先を読んでいるのがよい。50年先、100年先をも見据えられるのであれば、大成できる器があるかも。長になる器があるのは実績が示している。外国傀儡勢力に丸め込まれないよう、「情」を切る厳しさを見せて欲しい。孤立が出来るかどうかも見たいものだ。先が不安でもあり楽しみでもある人材に思える。)


1970年 東京都立戸山高等学校卒業
1976年 国家公務員上級甲種試験合格
1977年 東京大学法学部卒業。建設省入省
1994年 建設省建設経済局建設業課紛争調整官を最後に退官
1995年 岩手県知事初当選(当時全国最年少43歳)
1999年 同再選
2003年 同三選
2007年 任期満了により退任(四選不出馬)
8月27日、安倍改造内閣で総務大臣に就任。
9月26日、福田内閣で総務大臣に再任。
先代岩手県知事工藤巌(故人)の病気再選不出馬を受けた選挙で、当時新進党幹事長の衆議院議員小沢一郎に担ぎ出され、官僚を辞して立候補。自民党推薦の前副知事を破って初当選を果たした。
・・・例えば地産地消を基本とするスローフード的な食の安全の推進などの政策となって現れた。
増田は知事として、任期前半には積極的な公共投資を行い、任期後半に、財政再建に舵を切った。増田の任期前半は、国が景気対策の公共投資を推進した時期と重なり、一方の任期後半は、小泉内閣の発足に伴い、公共事業費の大幅な縮減が断行された時期と重なる
氏は退任後の取材に、「国の財政的限界で…(中略)…いずれ公共事業に予算が回らなくなるのはわかっていた。だから、東北新幹線や花巻空港、釜石自動車道など(骨格的な事業)は、先にやってしまおうと思った」

国際化(こういうのをほんとの国際化つーんじゃないか?「利用する」のがいい) 増田知事は、任期中、他県の知事にはみられない積極的な海外視察を多数実行した。・・・それにも関わらず、県内企業の輸出は停滞し、県内主要港湾からの輸出額がゼロの年すらあり、知事の姿勢が批判されたこともあった。しかし、3期目の後半、ようやく中国大連との交易が活発になり、増田知事の知事外交の成果が現れてきている。
任期中、盛岡競馬場の新築による岩手競馬の累積債務増大を放置し、政権末期になって特別融資を実施し、問題を先送りした。(これは、残したかったんじゃないか?ギャンブルは人さえ多くなれば黒字になるし、高価な馬などが動くし、、時期が来るまで先送りしたかったのではないか?と。)

再建 およそ1兆円の債務を抱える財政を再建するため、平成14年度予算以降、歳出削減策を次々に打ち出した。岩手県の予算規模が5年以上連続して減少するのは初めてのことで、その徹底した削減ぶりがうかがえる。9028億円(平成13年度)だった予算総額は、7300億円(平成18年度)に激減。公共事業費に至っては、2300億円(平成14年)→1300億円(平成18年)になり、その他の項目も、警察費や雇用対策費などを除いて軒並み大幅に減額された。


官僚出身の知事としては珍しく、地方分権に極めて積極的なスタンスを取った。
「国→都道府県→市町村」への権限委譲を主張し、全国知事会会長選挙に立候補して「闘う知事会」を主張。また、全国紙に論説を寄稿したり、県の権限を「パッケージ」単位にして、市町村へ積極的に委譲した。


小泉純一郎首相(当時)の推進した三位一体改革の理念には賛同したが、その地方分権・税源移譲の程度は「不十分なもの」と指摘し、「霞ヶ関によって改革が骨抜きにされた」と述べている。道州制導入に積極的な態度を示し、実際に働きかけてもいた。

2006年10月30日、四選目不出馬を表明し、翌年4月29日の任期満了をもって、岩手県知事を退任した。(中央への意思があったのか、潔いのか、自分の仕事は終わったと思ったのか、、)


総務大臣として増田は、三位一体改革の影響で窮地に立たされている地方財政を改善するため、「暫定的措置」としてではあるものの、地方交付税を財政力の弱い自治体に優先的に配分する政策を打ち出した。この特別枠制度は、2008年度政府予算とともに、1月召集の第169回国会に提出されることが閣議決定されている。(反安倍勢力の反対は?自分で巧く纏められたのか?その可能性もありそうな人だ)・・・この制度に伴って、国の新たな財政負担はない。・・・ただ、この案には財務省が激しく反発していた経緯があり(役人の利権がらみですか、、、)


父は、奥州市前沢区出身の元・参議院議員増田盛(自民党)。尊敬する人物は新渡戸稲造。
(あたまいいし、行動派だねぇ!味方についたら頼もしいが、敵に回ったら大変だな。どこの派欲しがるのがわかる気がする)


以上、ウィキから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB



法務 保岡興治
東京都立日比谷高等学校卒業。日比谷高校同期に加藤紘一ら。
最高裁判所第19期司法修習生となる。1967年に判事補に任官し、鹿児島地方裁判所に裁判官として赴任するが、翌1968年に退官し、父親の選挙を手伝う。選挙後に弁護士登録。

・・自由民主党に追加公認され田中派に所属する。1976年にロッキード事件で田中角栄が逮捕されると、保岡は弁護士として田中弁護団の一員に加わった

1993年に行われた第40回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。国政に返り咲くが自民党は野党に転落する。当選後は、小渕派に所属するが、1994年6月24日の羽田孜首相後の首班指名選挙では、自民党が推す村山富市社会党委員長ではなく、海部俊樹元首相に投票し、海部に従い離党した。
海部を代表とする院内会派・自由改革連合を経て、1994年12月の新進党結成に参加。

しかし翌1995年に新進党を離党し、自民党に復党する。

1998年に山崎派の結成に参加。憲法改正が政治課題として浮上し、衆議院に「憲法調査会」が設置されると保岡は同調査会の幹事に就任する。


2000年、第2次森内閣に法務大臣として初入閣。法務大臣在任中に法規に従い3人の死刑囚に対して死刑執行を命令した。

加藤の乱では、閣僚として身動きの取れない中で、山崎拓や加藤紘一の行動を支持することを模索する。

加藤らが本会議に出席して森内閣不信任案に賛成した場合、加藤派の森田一運輸大臣と共に、その場で閣僚の辞表を森喜朗首相に手渡して不信任案に賛成票を投じるため、辞表を胸に忍ばせて不信任案採決に臨んだ。しかし、採決前に加藤らが折れてしまったため、不信任案には反対票を投じることになった。(、、、情によわいのか?)


2001年、小泉純一郎内閣で自民党国家戦略本部が設置されると、同本部事務総長に就任、

2004年には自民党憲法調査会会長に就任する。同年11月「憲法改正大綱」の原案を党内に提示。ところが、この大綱における衆議院議員の優越性(閣僚就任を衆議院議員に限定)などを巡って党内の参議院議員を中心に反発が相次ぎ、撤回に追い込まれた。

2006年5月13日、安倍晋三ら自民党議員数名らと共に 、統一教会の関連団体「天宙平和連合」(UPF) の福岡での大会(合同結婚式も行われたとも報じられたが統一教会は否定)に 祝電を打った上、夫人を来賓代理として出席させた


自民党遊技業振興議員連盟会長であり、パチンコ業界と強い繋がりを持つ。
グレーゾーン金利廃止には反対の意見を表明して高利貸金業界やサラ金業界を擁護していたが、サラ金などによる多重債務者問題を救済すべきだとの声が自民党内からも強くなり、ついに保岡の主張は退けられてグレーゾーン金利は廃止されることになった。(注:地元である鹿児島県貸金業協会の顧問を務めている)

以上、ウィキから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%B2%A1%E8%88%88%E6%B2%BB

昔風の自民議員?
「このくらいはいいだろう!」はもうだめよ!
(続く)



【移民反対】 署名のお願い!! 【根本を考えよう】
よろしかったらご協力お願いいたします!!

http://www.iza.ne.jp/jump/http%253A%252F%252Fwww.shomei.tv%252Fproject-59.html

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北京五輪

ボイコット!!


おや?
なぜかこんなところに、北京五輪の公式スポンサー一覧ブログが?? http://14471.iza.ne.jp/blog/entry/515464/




島根県 竹島サイト http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/

南京大虐殺を世界に宣伝する日本大使館
http://tamagawaboat.wordpress.com/2007/02/03/japanese-embassy-advertises-nanking-massacre/ 


<<会社譲ります>>
日本からの輸入販売業(5年経過)
価格 タダw
閉め様と思ったのですが、バンコクを代表する5星ホテル10軒を筆頭に良い固定客がそこそこ付いています。折角ここまで広げたのを無にするのも忍びなく、誰か引き受けてくれる方を探しています。
負債、メンテナンス費用の前受け金が2万バーツ程度。他、なし。
運転経費 事務所、従業員(2人)、経理などの毎月の経費等で約4-5万バーツ

日本人ならば2-3ヶ月で覚えられます。
言語に不安がある方は、夜に語学学校に半年も通えば充分です。何人もの知人がそれで話せるようになっています。

会社さんの場合、伸ばしたい者に研修のつもりで経営させる最小限の規模で、よい経営者感覚を作れるのではないでしょうか。

年数が経っているので、信用は付いています。

ご興味がございましたら、
http://unimaro.blogspot.com/
こちらのブログのコメント欄にメッセージに入れてくださいますよう、お願い申し上げます。





なかのひと

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